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西南戦争史跡「西郷隆盛終焉の地」

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西南戦争史跡『西郷隆盛終焉の地』

鹿児島県鹿児島市城山町には「西郷隆盛終焉の地」と言う碑が存在する。

この碑は西南戦争で西郷隆盛が最期を遂げたと言われている場所に立っています。

アクセス

カゴシマシティビュー「薩摩義士碑前」バス停から徒歩5分

西郷隆盛とは

画像:wikipedia 孫隆治をもとに大牟礼南塘が描いた掛け軸の模写

西郷隆盛は元々は薩摩藩(今の鹿児島県)の下級武士であったが、薩摩藩主島津斉彬に見定められ、メキメキと才覚を表し、薩摩藩のリーダーとして先頭に立つようになった。勝海舟、坂本龍馬ら盟友と出会い、成長した西郷隆盛は薩長同盟を結び、戊辰戦争では新政府軍を指揮し、京都から東北までいくつもの戦いを勝利に導いた。江戸城無血開城を決定し、江戸の住民を救ったのはとくに有名なエピソードだ。戊辰戦争中徳川幕府を倒し、欧米と並ぶ近代国家の礎を気づいたまさに明治維新の立役者が西郷隆盛である。

西南戦争とは?

画像:wikipedia 城山の戦い

西南戦争は「西郷隆盛をリーダーとする薩摩藩の士族たち」VS「始まったばかりの明治政府」の戦いです。

下野する西郷隆盛

西郷隆盛は徳川幕府を倒し、明治維新を成した後は新政府の要職に就いていたましたが、鎖国状態となっていた朝鮮を開国させるために自ら全権大使として朝鮮に渡るという主張「征韓論」に敗れて下野(官職を辞めて民間に下る事)していた。この時新政府にいた人間の多くは明治維新を起こした旧長州藩士と旧薩摩藩士が中心となって作られた政府だったため、西郷隆盛を慕う多くの元薩摩兵も薩摩へと帰っていった。

新政府により急速に変わる日本

西郷が新政府から去った後、明治9年(1876年)3月に武士の魂である刀を持つことを禁止する廃刀令が敷かれ、8月にはこれまで江戸時代から士族に毎年支給していた「俸禄制度」を廃止し「金禄公債証書条例」が制定されるなど、明治政府の手により士族と平民の差を無くす法律が次々と決められていきました。これらの法律は日本全国の士族からすると今まで持っていた特権のほとんどを失うものであり、新政府を作るために大きく尽力した薩摩の士族達にとっては特に受け入れ難いものであった。

なぜ西郷隆盛は決起したのか

士族達の不満が高まっていく中、西郷隆盛は「私学校」を設立する。私学校設立の目的は新政府により行き場と職を失った士族達の受け皿として、新政府への反乱を防ぐためにあっとたと思われます。私学校では主に「漢文」と「軍事訓練」を教えていたという。

一方東京の明治政府は鹿児島(薩摩)で影響力を強める私学校に対して危機感を持っていました。この頃私学校は西郷隆盛の意思とは逆に反政府的思想を強め、鹿児島県の政治にも関わるほど影響力を持ち始め、日本の中に独立国があるような状態だった。新政府の内務卿で西郷と同じ薩摩出身で大親友の大久保利通は私学校の動向を探るために薩摩出身の警察官を帰郷させ私学校を視察させます。その少し後に明治政府が鹿児島の陸軍火薬庫から秘密裏に武器弾薬を徴収していました。この行動を知った私学校の生徒らは激怒し、政府の弾薬庫を襲撃してしまう。大久保利通の命で視察任務に当たっていた密偵が割り出され、拷問の末に大久保から西郷を「刺殺」せよとの命を受けていた事を白状する。

しかし大久保は密偵に西郷を「刺殺」しろとは命じておらず「視察」しろと命じました。「刺殺」と「視察」同じシサツという言葉の誤解があったのではないかという説もあります。明治政府への不満が積もりに積もっていた鹿児島の士族達は大久保と明治政府が西郷の暗殺を計画していたと聞き、怒り狂います。どちらにせよ政府の火薬庫を襲った後なのでもう後戻りはできないと悟った西郷は新政府の真意を問いただすために兵を挙げます。明治10年(1877年)2月、西郷軍は明治政府の中枢のある東京に向けて進軍を開始します。

日本最後の内戦勃発

西郷軍13000人は東京を目指し北上を開始します。途中全国から集まった西郷派の士族も加わりその軍勢は30000人へと膨れ上がります。西郷軍は新政府軍と熊本城で戦闘になり、熊本城に籠る新政府軍を攻めますが、熊本城の守りは強固で膠着状態が続きます。持久戦になると見込んだ西郷軍は熊本城への援軍が通るであろう田原坂(たばるざか)へ兵を送ります。熊本城に援軍を送りたい新政府軍と、これ以上敵が増えると熊本城を落とせなくなる西郷軍の思惑が重なり田原坂は西南戦争最大の激戦地になりました。最新鋭の装備と数で勝る新政府軍が優勢と思われましたが、元士族で戊辰戦争を京都から北海道まで戦い抜いてきた西郷軍の刀による白兵戦により新政府軍は多くの死傷者を出していた。当時最新鋭の銃を装備しているとはいえ、主に農民から徴収した新政府軍は接近されるとどうしても不利だったのだ。対策として新政府は警視隊から剣術に秀でた者を選出した「警視庁抜刀隊」を組織し、激戦地田原坂に送り込んだ。警視庁抜刀隊の奮戦により態勢を立て直した政府軍は田原坂を突破し、熊本城へと援軍を送ることに成功した結果西郷軍は鹿児島方面へ押し戻されていった。

西郷隆盛の最後

鹿児島まで戻った西郷軍は既に新政府軍の占領下であった鹿児島市内に突撃し、新政府軍が占領していた私学校を奪還し、城山を占領した。しかし反撃はここまでだった。新政府軍の援軍は続々と鹿児島に集結し、5万人の兵力で西郷軍の占拠する城山を取り囲んだ。この時西郷軍の人数は372名、とても勝ち目はない状況だった。明治10(1877)年9月24日未明に砲撃と同時に新政府軍の総攻撃が始まり、西郷軍はこれに応え、最後の突撃を開始する。坂を駆け下りる途中新政府軍が放った銃弾が西郷隆盛の腰と太ももにを貫き、最期を悟った西郷隆盛は「西郷隆盛終焉の地」石碑近くで側近別府晋介(べっぷしんすけ)の介錯により亡くなった。

ラストサムライ西郷隆盛の死により日本から士族が消えた瞬間であった...。

 

『西郷隆盛終焉の地』を撮影してきました

喪失者
喪失者
うわあああ火山が噴火したーーー!!
未来人
未来人
おっそろしい所だな…
薩摩の侍は特に勇猛果敢でバーサーカーみたいだったと聞いたことがあるが、火山の噴火で常に精神が鍛えられていたからなのかもな?

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