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西南戦争史跡「西郷隆盛終焉の地」

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西郷隆盛が最期を過ごしたという「西郷洞窟」も近くにある。いずれ別記事で紹介する予定だ。

思っていたより小さな敷地内には静寂な空気が流れていた。

未来人
未来人
西郷隆盛はハリウッド映画「ラストサムライ」に出て来る侍達のリーダー勝元のモデルだと言われているらしいな。
映画の年代設定と士族VS新政府軍…確かに共通点が多いね。
喪失者
喪失者

新政府軍に包囲された薩摩軍は最後の特攻を仕掛けるが、新政府軍の放った銃弾が西郷隆盛の腹部と大腿部を打ち抜いた。最期を悟った西郷隆盛は正座して東方に遥拝した後、側近の別府晋介に介錯を頼みこの場所で最期を遂げた。享年51。

西郷隆盛終焉の地 「晋(しん)どん、もうここらでよか」
-波乱の道、ここに尽きる-
ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部を撃ち抜いた。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされた。「晋どん、もうここらでよか。」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされた。明治10年(1877)9月24日のことです。西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強力な反政府勢力となった薩軍が、2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7ヶ月もつづいた「西南の役」が終わったのです。
熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散。西郷以下の幹部は宮崎県北の可愛岳(えのだけ)を突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。岩崎谷の銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令 山県有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷したということです。

西郷隆盛終焉の地案内板より引用

 

石碑には「南洲翁終焉の地」と書かれている。

石碑の裏にはお供え物のペットボトルが置かれていた。推測だが石碑の美観を損なわないようにとの気遣いで裏に置いているのだろう。

撮影当時はNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」が放送されていたこともあって頻繁に人が訪れていた。

石碑の裏

ふと、石碑の後ろの大きな木に目が止まった。この木は西郷隆盛の最後を見届けていたはずである...

西南戦争に赴いた西郷隆盛の心情については諸説あるが、西郷隆盛は最初から西南戦争に勝利するつもりはなく、新時代に生き場所を見つけられない不器用な士族達に最後の生き場を与え、士族達の象徴と化してしまった自分を犠牲にすることによって侍の世を終わらせようとしたかにも思える。事実西南戦争を最後に全国の士族の反乱は収まり、西南戦争は日本最後の内戦となっている。

本当の西郷隆盛の心情は分からないが、新時代明治を作り、自ら作った明治政府に撃たれる... どんな思いで西南戦争を戦い、この場所で亡くなられたのかと思うと非常に感慨深い所である。

まとめ

未来人
未来人
見つけにくい所にあるのが残念だが、地元の人達に深く愛されているというのが伝わってきた。ラストサムライ西郷隆盛は今も地元鹿児島と日本の未来を見守っているだろう...
喪失者
喪失者
戦場だったとは思えない程閑静な住宅地の中に「西郷隆盛終焉の地」はひっそりと存在していました。西郷隆盛が最期の5日間を過ごした洞窟も近いので、合わせて見に行く事をお勧めします。

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